7. 貸し家探し(改題及び抜粋)

(2003年に通算20年以上生活したスペインから日本に帰国。翌年ホームページで発表した『フラッシュバック・スペイン』の一部です。) 

(前略)

貸家その1

 スペインの不動産契約は賃貸・売買共に、個人間の直接取り引きが多かった。売値や賃貸料に不動産屋の手数料を上乗せすると価格が高くなる。買い手や借り手は同じ物件なら不動産屋を通さない方が安いと知っている。貸主、売主は数行の広告を、それも只で広告を出させてくれる中古品売買の専門誌に出して、借りたい人、買いたい人はその新聞を買う。かなりの物件数があって、地域別、値段別に掲載されている。バス停などに、ちっちゃい紙切れに書いたのを貼ってあることもある。貸しピソ、ナニナニ通り、家賃幾ら、2寝室、サロン、浴室、キッチン、平日何時から何時の間に○○番まで電話を、…等々々。
 「足で探す」方法もある。これと思う地域があったら、その中をマメに歩く。通りに面した窓やバルコニーに「貸します」「売ります」等の貼り紙がしてあることもあるし、建物の玄関口に貼ってあることもある。そういう「広告」がなくても、中に入って管理人に聞いてみると空き家があったりする。

 ひとりの収入で借りられるのは、エストゥディオ(estudio)と呼ばれるワンルームか、アパルタメント(apartamento)と呼ばれる小さいピソだ。会社の人に教わって行ったオフィスの真裏の建物で、家具付きワンルームを契約した。

(中略)

 週末の朝、ベッドの中でぼーっとしてると水の音がする。雨か、とぼんやり思った記憶がある。もしかしたら雨の夢を見てて目が覚めたかもしれない。数分後に本格的に目が覚めた時、外は晴れていた。雨じゃなくて上の階から水漏れしているのだ。水洗トイレのタンクでも壊れたのか、ひっきりなしに水が流れる音がして、見上げる天井にみるみる染みが広がっていく。

 それからの数時間は正に修羅場だった。天井の染みを通り越して床に落ちてくる水をモップで拭き取る。そしてバケツの上で絞る。天井裏に凹凸があるらしく、落ちてくる場所は決まっている。でもどんどん水の量が増えて行く。拭いちゃあ絞る。合間に上の階まで走っていったが、その部屋の 住人は幾らベルを押しても答えない。そりゃそうですね。家に居れば幾らなんでも水漏れに気付いて、トイレの元栓を閉めるとか、できる筈ですって。戻って、又拭いちゃあ絞って、今度は1階まで走って行く。管理人が予備の鍵を持ってるかもしれない。が管理人も居ない。留守を守る奥さんは管理人以上に冴えない。「今居ない」というばかり。でも何かできることあるんじゃないの?
 又走って戻って天井の水滴の溜まり具合をみながらモップを構える。モップを絞っちゃあ天井を睨み、そして拭いちゃあ絞る、ということを繰り返してるうちに、やーっと管理人が戻って来た。だが彼は上の部屋の鍵は預かってないと言う。多分信用されてなかったんですね。けど何とかしてくれないと困るよ、永遠にモップと格闘を続けるわけにはいかない…

 暫く経ってから管理人が下した決断は、その列全部の水道管の元栓を閉めることだった。どこが壊れているのか特定できないので、給水と給湯の両方を止めると言う。問題の部屋の上下にある全ての部屋が断水となる。背に腹は替えられない決断から暫くして、上の階の水音はようやく止まった。でも上の部屋の床と筆者の部屋の天井の間にかなりの水が溜まっていたらしく、その後も水は落ち続けた。そうやって1,2時間も格闘を続けた後、やっと水が流れ落ちてくるのが止まってほっとしたのもつかの間、今度は水を吸いこんで柔らかく、そして重たくなった天井の石膏とペンキが一緒になって落ち始めたのだ。あちらにドサリ、こちらにドシャリ。モップとバケツだけじゃなくって、箒とチリトリも必要になった。おまけに今度は天井の凹凸に関係ない。とにかく全面的に水浸しになっちゃったんだから、どこが落ちて来ても不思議ではない。ベッドの上とかが落ちてきそうになったら、慌ててベッドを動かさなくてはいけない。狭い家の中、安住の地はない。動かした先の天井が又落っこちてきそうになるからだ。そうやってその日はいちんち中格闘してた。モップとバケツ、箒とチリトリ、そしてベッドやその他の家具と。断水した家の中でその日の食事はどうしたのか、もう覚えてない。夜になって何とか濡れずにすんだベッドで寝ることができたという以外は…。

 夜になったら帰って来る、或いは旅行だとしても週明けには帰ってくるのでは、と期待されてた上の住人は、それから数日間戻って来なかった。ずーっと断水です。友達の家でシャワーを浴び、同じ階の別の部屋の住人に事情を話して、お鍋やバケツに水を分けて貰った。トイレや炊事用の最低限の水だ。でも困ってたのは筆者だけじゃない。何階建ての建物だったか忘れてしまったけど、その全部の階の、同じ位置にある部屋の住人全員が断水の憂き目にあってたのだ。何日目かに住民会議が開かれた。といっても賃貸で住んでた筆者は呼ばれなかったので、多分所有者達の会議でした。

 鍵のない家に入るには警察とか消防署とかを呼ばないといけないらしい。他人の家の戸を押し破って、そして押し入るわけだから、まあそうですね。結論が出せないまま終わってしまったらしい会議から更に2日ほどが経って、やーっと上の住人が戻って来た。自分の部屋の惨憺たる有様を眺めながら家の中を歩き回る靴音が、その夜いつまでも聞こえた。
 故障は最初に予想した通り、水洗トイレのタンクだった。その元栓を閉めて、他の住人はやっと断水生活から開放された。上の部屋がその後どーなったか、シッタコッチャナイ! スペイン式に言うなら「髪の毛ほども」!!

 一日中格闘したお陰で、筆者の部屋の床は被害がなかった。むしろ何回も水拭きしたので少し綺麗になったかもしれない? が天井は全て落っこっちゃいました。一から作り直さねばならない。勿論上の住人の責任です。どうやって直すかは家主と話して決めて貰えばいい。でも家主は地方に住んでて余り家の事にはタッチしてないみたいだった。だからこんな管理人に任せてるんだ…管理人の顔を見る度に聞いても、直さなきゃいけないというだけで、左官屋さんもペンキ屋さんも一向に来る気配がなかった。まあこういう「水害」の場合には、建物が完全に乾くまでは修理できないということもありますけどね。
 筆者は管理人にチップをやる代わりに引っ越すことにした。もう他の部屋が空かなくともいい。建物自体と管理人に見切りをつけることにしたのだ。

教訓: スペインの集合住宅では、旅行等で家を留守にする時には水道の栓を閉めておかなくてはいけません。特に管理人の居ない建物や、居ても鍵を預けたくないのなら。

貸家その2

「貸アパート、条件はポルテーロに、電話番号×××…」という玄関の貼り紙から、当時新築2年くらいだった綺麗なアパルタメントが見つかった。家賃は今までのワンルームの倍以上、手取りの給与の3分の2くらいにもなったが、生活費はそんなに要らない。何とかやっていけそうな感じがした。日当たりが良く間取りもいい。テレビや電話は付いてなかったが、その他の家具は一応揃って いた。乾燥機付き洗濯機も。

 引っ越して数日後、朝出勤しようとしてエレベーターに乗ったら、途中の階でおまわりさんがふたり乗って来た。それもピストル差した国家警察のおまわりさん! おまけに玄関ホールに降りると、床に血の染みのようなものが見える。ナ、ナニコレ? ナニゴトガアッタノ? 夏休み中だった管理人に代わって「管理」をしていたおじさんは、うろたえ気味に「何でもない、ちょっとした喧嘩があったんだ、それもここに住んでる人じゃなくって外から来たんだ」というばかり。折角いい家が見つかったと思ったのに、もしかしたらトンデモナイところに引っ越して来ちゃったんだろうか…

 暫くして建物には、玄関にポルテーロの居ない夜と週末、警備の人が常駐するようになった。それも公認資格によってピストルを携帯できるプロのガードマン! 何があったのかは知らねども……所有者会議でちゃんと話し合って、こうやってお金のかかる対策処置を決められるところなら、もう 少し居ても大丈夫なような気がしてきた。

 当初の不安を裏切って、この家での生活は快適なものとなった。日当たりがよく住み易い間取り、新しい建物、会社やデパートにも歩いていける便利さ、そしてピンでもキリでもない、ピカイチのポルテーロ、つまり「管理人さん」が居た。「事件」があった時は丁度夏休みだったけど。

 初代のポルテーロ、アントニオは元ペンキ職人だった。字がヘタクソで、領収書などを書かなくてはいけない時はスゴク恥ずかしそうにした。数年後に年金生活に入ったので、当時は60歳過ぎ?
正直者で清廉潔白、チップを渡そうとすると大仰な身振りで断った。何すんだ、お前みたいな娘っ子が、と言った。親しい人に対する口調だった。[スペイン語では相手との距離、親近感 の度合いによって、第二人称の主語が変わります。]

 プロの警備人が毎夜とそして週末の警備を6ヶ月続けた後、マノロがやって来た。アントニオの2番目の息子。二十歳くらい。学校を出たけど就職難で、ガードマンの代わりに夜のポルテーロ、つまりナイト・ポーターをすることにしたのだ。ピストルは持ってないけど、バスケットをやってた体は見るからに屈強で、そして明るく気立てが良かった。自治会も、ピストル携帯の有資格ガードマンに比べると、きっと費用節約できたのだ。その後血を見るような事件は起こらなかったし!
 ポルテーロが建物内に一室を提供されて家族と共に住んでる場合もあるが、ここは「通い」だった。でもウィークデーの昼間だけでなく、こうして夜も週末も玄関に立っててくれる人が居るというのは心強い。おまけに家の中のちょっとした修理なども引き受けてくれる。昼間はアントニオ、夜と週末はマノロが出迎えてくれる玄関は、女性の一人暮らしの安心感を増した。この二人なら鍵を預けても何の心配も要らなかった。旅行に出かける時には鉢植えの花の水遣りを頼んだ。マノロはお父さんのアントニオよりもずっと字が綺麗で、領収書の書き方なども堂に入っていた。

 アントニオが夏休みの間はマノロが昼間のポルテーロになった。そして夜と週末は彼の弟のカルロスがやって来た。お兄さんより細面でメガネをかけていた。カルロスは夜の玄関に座って、バイトのかたわら受験勉強をしていた。大学に進学して心理学を専攻した。大学に入ってからも夜のバイトを続け、試験のシーズンになるといつもノートを開いていた。数年後にアントニオが年金生活に入った時、建物の管理体制はそのままこのふたりに引き継がれた。自治会も多分満足してたんです。

 元ペンキ職人のアントニオの子供時代は、恐らくスペインの市民戦争とダブっている。多分今よりも貧富の差が大きく、社会全体が混乱して貧しく、そして肉体労働者の子供に学問は要らないと思われていた時代だ。彼はきっと十代の前半から働き続けて来たのだろう。上の学校に行きたくとも、行けなかったのだ。恥ずかしそうにヘタな字を書く時、そう想像した。他にもそういう人を知っていた。その人の子供時代は多分1950年代で、市民戦争は既に終わっていたけれど、未だ社会は貧しく混乱していたのだ。

 80年代のスペインの教育制度は、大学に進学する子供とそうでない子供を15歳で分けていた。義務教育は14歳まで。その後は大学進学コースと職業教育コースに分かれる。勤めていた会社には、昼間働きながら夜その職業コースの高校に通っている若い社員が何人かいた。勿論大学にも夜間のコースがある。本人の資質と努力次第では、肉体労働者の子供でも大学に進学できる時代になっていたのだ。

 アントニオの息子達は上の学校に行った。2番目のマノロは多分職業コースの高校へ、そして末っ子のカルロスは大学まで行った。だけど…
 スペインはこの当時から現在までずーっと就職難だ。「就職難」「失業率」というのは、滞在した約20年間に渡って変わらぬトピックだった。マノロは取りあえず始めたポルテーロの仕事をずっと続けることになった。他の仕事が見つからなかったのだ。ピカイチのポルテーロだった。カルロスは大学を卒業したけど、今もナイト・ポーターのアルバイトを続けてるそうだ。「いい家」の出でない彼には有力なコネがないのだ。そして「いい家」の息子達は、大学を出ただけではいい就職口がなかなか見つからないので、ハクを付けるためにマスターやビジネス・コースを取る……現在のスペインでは子供がなかなか独立しない。子供が親の家を出る平均年齢は高くなるばかりだ。

貸家その3

 弁護士の妻、スペインの多分上流階級の下くらいに属する新しい家の大家さんは「家主業」が生まれて初めての「お仕事」だった。キャリア・ウーマンというのが流行り始めた頃で、お上品ぶった甘ったるい声で「これが私のお仕事なの」と言った。弁護士の旦那さんは黙って微笑んでいた。普通に やってくれればいいのに、巷に流布されている「家主」像に習おうとして(?)ヘンなところで頑張った。弁護士の旦那さんは知ってか知らずか…家賃を不当に上げようとしたり、家主が払うべき修理費を出すのを渋ったり…そのたんびに会社の弁護士さんに相談しちゃあ「弁護士の妻」に電話して、こっちに理がある、或いはこっちに理がある事をこっちはちゃんと知ってるんだ、ということを理解させる作業にいささかウンザリし始めていた頃、又水難にあった。休日に給湯の水道管から水が噴き出して来て、元栓を閉めても止まらなかったのだ。大事に至る前に修理してあげたのに、「家主」が「お仕事」の弁護士の妻はその修理代を負担するのを渋った。

 休日サービスで倍取られたとはいえ、元栓自体の接続部がお湯の温度で緩んでしまったのをサイズの合ったスパナで締めただけの簡単な作業に、水道屋さんは7000ペセタ要求した。知ってさえいれば、自分でも直せたような「故障」だった。けど、あとでスペイン人の友達が言ったように、「何をすればいいか知っている事」に対しても対価は支払われるのだ。そして適切な道具を持ってることに対しても。7000ペセタを払って領収書を貰い、家主に請求したのを、次の家賃から引いてくれれば、それで済んだのに…それにしてもたかだか7000ペセタですよ! それをエリート弁護士の奥さんで、一戸建ての豪邸に住んでて、マジョルカ島に別荘持ってて、貸家も2軒持ってて、そして娘2人をイギリスに留学させてる上流夫人が、出し渋るんすか? それもこっちが「水道管壊した」って言って!?

 相談した会社の人事部の若い弁護士は賃貸契約書を読んで、借り手が払うべき費用じゃないと言った。張り切って「強硬な」レターを作った。それを読んだ「弁護士の妻」は、賃貸契約を延長しない、と言ってきた。論破するのもバカらしいような理由をつけて。家はいいけど、こんな家主と付き合うのは、もうこっちから願い下げだ。

 ポルテーロのアントニオに事情を説明した。彼は「心配するな、他のをめっけてやる」と言った。暫くして他の家主が所有していた別のアパルタメントが空くことになった。家主は同じ建物に3軒持っていた貸家の管理を、全てアントニオに任せていた。その大家さんに彼は、「家賃を安くするならいい子を紹介するよ」と掛け合ってくれたのだ。大家さんは「アントニオが言うなら間違いがない」と、家賃を彼の言うなりに下げて(?)筆者に貸してくれることになった。「家賃を少々安くしても、いい人に貸した方が結局は得」という主義だった。新しい大家さんは「建築家の妻」だった。ご主人は自分の会社を持つ経営者、つまり社長夫人。でもお上品ぶらず、甘ったるい声でヘンな理屈をこねる事もこねない。トラブルがあった時にも普通に話ができそうだった。ニュー・リッチの「弁護士の妻」とは大分違う。
 いえ、「ニュー・リッチ」ってのは筆者の推測ですけどね……本当のお金持ちは市内の高級住宅地に家を持ってる。弁護士一家は郊外の高級住宅地に住んでたのだ。

 アントニオのお陰で次の家が見つかったので、賃貸契約の切れるひと月前に引っ越すことにした。その1ヶ月分の家賃を払わなくともいいように、又会社の弁護士に相談した。でも今度は人事部の若いのは止めとこう…法務部の中堅弁護士はちびた鉛筆をなめなめ、弁護士の奥さんに書く手紙を考えてくれた。
 「弁護士の妻」は、契約期間よりひと月早く家を空けることに一切文句を言わなかった。逆に居座られるのを心配してたのです。つまりやっぱり、賃貸契約を延長しない理由には根拠がなかったのだ。こう して4年目に、同じ建物の中の一階下のアパルタメントに引っ越し、そこで更に4年を過ごした。

 新しいアパルタメントはそれまでのものに比べて僅かに狭かったが、間取りはほぼ同じ。 一番の違いは家具付きではなかったことだ。システム・キッチンにレンジと冷蔵庫が付いていたが、洗濯機を据え付けるべき場所はポッカリ空いていた。洗濯機とテーブルを買って新生活を開始し、日曜大工キットの棚を組み立て、自分でニスを塗った。ソファの代わりに固めのウレタン材を店でカットして貰い、それをくるむカバーを仕立てて貰った。後に「建築家の妻」そして「社長夫人」の大家さんはこの特製ソファを見て、「これはいいわ、私もマネしよう」と言った。

 年々家賃は上がったが、市場相場より高くなることはなかった。相場を見ながら、このまま筆者に借りて欲しいと思ってる事が感じられる価格設定だった。こっちも1年目がかなり安かったから、まあ仕方ないかな、と思った。それに台所のレンジを修理した時、何も言わずに修理費を出してくれたし。
 スペインの賃貸契約は個々に条件を交渉して契約書を作る場合と、国が売ってる用紙で標準契約を結ぶ場合がある。国の賃貸契約書用紙は家賃の額に応じて値段が高くなる。それ自体が「収入印紙」のような仕組み?
 最後の延長契約を結ぶ時、彼女は間違えたのか故意にか、家賃の年額よりもずっと安い契約書用紙を買って来た。こちらを騙したり、不利になるような事をする意図は感じられなかった。彼女が国に対して「節約したい」と思ったのなら、それはそれでいいと思った。

 その延長期間が終わり、筆者が自分の家を買って引っ越すことになった時、彼女は地下のトランク・ルームをただで使わせてくれた。所有者の中で彼女だけが持っていた特設のトランク・ルーム。
新居のリフォームが終わるまで筆者はそこに家具を置いて、身の回りの物だけ持って友達の家に身を寄せた。9年前にイギリスに行った彼女は英語を生かした職に就き、陶芸家の彼は民芸店で安定した収入が得られるようになっていた。ふたりは親から独立して一緒に家を借りて住んでいた。賃貸契約が終わってローンの支払いが始まったのに、新居の工事が終わらない筆者に、空いている部屋に来いと言ってくれた。私は「一緒に住めることになったね」と言った。

教訓: 契約書、なんていうのは所詮紙きれです。大事なのはそれを取り交わす相手の「人」。相手が悪ければ、契約で守られていても嫌な思いをする。逆に相手がよければ、契約に書かれている事も書かれてないことも、弁護士なんかに相談しないで一対一で話し合えるのです。

 最初の2軒を決める時には随分色んな貸家を見に行った。家の中や話をした家主又は管理人の様子まで、おぼろげながら浮かんで来るものもある。そのひとつひとつ、どうしてそこに決めなかったのかは、今となっては思い出せない。洗濯機がなかったから? 会社から少し遠かったから? 結構気に入ったところもあったような気がする。でも何となく、もう少し気に入る家がありそうな気もしたのだ。
 その殆ど全てが家主との直接交渉だった。敷金や礼金という概念はなく、契約時にひと月分の家賃を「保証金」として払うのが普通だった。個人間交渉では家主の側が負うリスクも大きい。借家人が家賃を払わなかった時や、家を極端に傷めた時のための保証で、毎月きちんと家賃を払い、普通の暮らし方をしていれば、最後に返してくれる性格のものだ。実質的には「最後の月は家賃を払わなくていい」というのが多かった。

 「弁護士の妻」の貸家では、契約期間よりひと月早く家を出ることになったので、その手が使えない。保証金をちゃんと返して貰えるだろうかと相談した先の中堅弁護士は、絶妙なる言い回しを考えてくれて、これを「配達証明」付きで出せと言った。その手紙のお陰か、保証金は全額帰って来ました。尤も、夫の付き添いで家の「検証」に来た「弁護士の妻」は、借家人の落ち度を見つけるべく家中あら捜しをし、結局何も見つけることができずに保証金を返すしかなさそうだと分かると、自治会の議事録を取り出した。未だ付いてもいないパラボラ・アンテナの設置費用を盾に、お得意のカマトト詭弁で保証金返済をかわそうとしたのだ。傍らで夫の弁護士は黙って微笑んでいるだけだった。妻の方もさる事ながら、この夫の人物像はどういうのか? ついぞ分からなかった。

 社員のプライベートな相談ごとにもいつも親身になって答えていた法務部の弁護士は、数年後に脳腫瘍で亡くなった。手術や薬の副作用と闘いながらの、働き盛りの死だった。彼の葬式に参列しなかったことが、あとあとまで悔やまれた。

 「建築家の妻」の家賃取立てはポルテーロが代行していた。3回の契約延長で、家を出る時の家賃と当初の保証金の額に差があった。どうすればいいのか電話で聞くと、彼女は「最後の月はその差額だけを払えばいい」と言った。最後の月の家賃を彼女は自分で、そして一人で取りに来た。家の状態を見る前から差額分だけの領収書を用意して来ていた。地下のトランク・ルームを使えと言ってくれたのは、その時だった。初代のポルテーロ、アントニオが薦めるなら絶対間違いがない、家賃を安くしてでもその娘に貸せ、と言ってくれたのは、実は「建築家で社長」の夫だったそうだ。