8. 銀行(抜粋)

(2003年に通算20年以上生活したスペインから日本に帰国。翌年ホームページで発表した『フラッシュバック・スペイン』の一部です。) 

 初めてスペインに行った時先ず目についたもののひとつが銀行である。いっぱいある。あっちにもこっちにも…ブロック毎に1軒あると言ってもいいくらい。3ヶ月だけ一緒に住んだアメリカ人女性は、「どこか改築してたら、その後にできるのは先ずバールか銀行よ」と言っていた。後に仕事で会った銀行関係者によれば、スペインの銀行が支店をどんどん開くのはその方が税法上有利だから、ということだった。(…中略)

 当時の海外旅行の常識に従って、留学費用の大半は予めドルのトラベラーズ・チェックに換えて持って行った。海外で円がそのまま使えるなんて、思いもよらない時代だった。
 費用の一部は郵便為替で送金したが、これは円で送ってペセタで受け取った筈だ。
 当座の生活資金はそれで足りたが、ドルのトラベラーズ・チェックを現金に換えて、どこかに預金しておきたかった。大手の都市銀行の国際ディビジョンがある支店に行った。スペイン人のクリスティーナに同行して貰った。知らない用語が出てきたり、数字が聞きとれないと困るもんね。
 背広にネクタイの銀行マンは、ジーパン履いた日本の留学生とヒッピー風サマードレスを着たスペイン娘の2人組を、個室に招き入れて話を聞いてくれた。ドルを持ってるならドルの口座を開けばいいと言った。今になって考えると、随分適切なアドバイスをしてくれたものだ、あの銀行マン氏。

 スペインでは、外貨からペセタへの両替自体はどの銀行でもできる。但し手数料が銀行・支店によってかなり違った。当時交換手数料が一番安いのはスペイン銀行、つまりスペインの日銀でした! そこで両替業務もやってて、しかも手数料が「激安」というのは、留学生の間では知られていた。外為業務の少ない地方銀行や小さな支店に行くと手数料は高くなった。
 国際ディビジョンのあったその都市銀行の支店では、スペイン銀行、そしてやはり国立の外為専門銀行に次いで交換手数料が安かった。そこで必要な時に必要なだけをペセタに替えて引き出すことができた。おまけに留学中にドルがペセタに対してどんどん高くなった。ペセタがどの通貨に対しても安くなってたのかもしれないけど。1年の予定だった留学をもう1年延長することにした時、追加の送金は必要なかった。通っていた語学学校と陶芸学校は共に公立で、学費は殆どかからない。毎月200ドルで生活費が賄えました。

 スペイン銀行の「両替部」は建物の正面玄関ではなく、裏口から入って行くようになっていた。ある時両替に行ったら機関銃を構えた警備隊員がいた。それまで見たこともないような物々しい警戒だった。テへーロ中佐のクーデター未遂事件の直後だったのだ。

 1981年2月24日の朝、起き出して台所に行くと当時同じ家に部屋を借りていたエクアドル人のおばあちゃんが騒いでいた。ゴルペ・デ・エスタード(Golpe de Estado)があった、今日は子供を学校にはやらない、と。
 筆者はゴルペ・デ・エスタードがクーデターの事だと知らなかった。考えてみればそうなんですけどね。フランス語でク・デ・エタ…。国の衝撃って何のこと? ストライキでもやってるの? と聞いても、おばあちゃんはクーデターの何たるかをスペイン語で説明することができなかった。「そうじゃないの! ゴルペ・デ・エスタード! ゴルペ・デ・エスタードよ!!」

 陶芸学校に行く道がいつもよりずっと人通りが少なかった。学校に着いても、遅れて着いた筈だのに誰も居ない……学校中で見つかったのはスペイン人の学生2人と同じ日本からの留学生が1人だけ。でもやっとゴルペ・デ・エスタードが日本語のクーデターの事だと分かった。
 前日の夕方、開会中の国会にテヘーロ中佐率いる軍隊が侵入し、十数時間に渡って議事堂を占拠したのだ。計画に参加した軍人達が国のあちこちで予定の行動を起こした。スペイン国営放送のテレビ局もその目標のひとつで、テレビ局は一時的に表現の自由を奪われた。民主憲法を断固として支持した現国王と、国王に忠実だった軍人達の対応によって、事態は翌日までにほぼ収拾されたが、市民の大半は夜じゅうラジオの「クーデター速報」に釘付けになってたのだ。夜半過ぎには国王のメッセージが自由を取り戻したテレビで全国に放送されたそうだし……みんな朝、いつもならそろそろ起き出す時間にやっと眠ったに違いない。だが自分の部屋で勉強していた日本人留学生は、何も知らずに眠って、そして朝を迎えたのだった。
 やっと事情が分かって午後語学学校へ行く途中で新聞買おうと思ったら、もう全部売り切れてました。

 クーデター未遂事件はスペイン民主化の大きな危機だった。一時的にせよ「恐怖」を感じたスペイン人が少なくなかった。フランコが死んでから僅かに数年、その命日には、右翼が車にスペイン国旗をつけ、ピストルをぶっ放しながら街を走った時代だった。

 この事件の収拾に決定的な役割を果たし、一貫してスペインの民主化に貢献してきた現国王は国民一般からかなり高く評価されている。でもこの時クーデターに借り出された兵士達も、ほんとはクーデターなんかやりたくなかったんじゃないだろうか? そして国民の大半はフランコ亡き後の「民主体制」を評価してたんじゃないだろうか?
 留学を終えて日本に居た私に、スペインの友達から、アンダルシア州の、次いで国の総選挙で社会党が勝利を収め、そしてルマサ財閥が国有化されたと興奮気味の手紙が届いたのは、この僅か2年後だった。

 事件の数日後には、後に「2・23事件」と呼ばれるこのクーデター未遂に関するチステがゴマンと出来ていた。数週間後だったか、国立マドリッド語学学校のスペイン語科第三課程の「特別授業」に呼ばれた校長先生は、その中でも取っておきのひとつを披露してくれた。実際の国会議事堂の見取り図付きチステ! 建物のセキュリティに問題はないか、どこかに弱点はないか…と言いながらその図をたたんで行くと、最後には洋式便器を横から見た形になった。チステの特別授業を計画した謹厳実直な担当の先生は、授業が終わるまでにクラスの全員に配るコピーを手配してくれた。チステ、じゃなくって便器、じゃなくって国会議事堂の見取り図の。

(後略)