13. セキュリティ(抜粋)

(2003年に通算20年以上生活したスペインから日本に帰国。翌年ホームページで発表した『フラッシュバック・スペイン』の一部です。) 

 10年くらい前だっただろうか。異様に雨の多い年があった。乾燥した内陸気候のマドリッドでは、「水害」よりも「旱魃」の方が問題になることが多い。日照り続きの後で雨が降ると、空気も人も、そして街路樹もほっとするようだ。だけどこの時は毎日毎日降り続く雨にみんないい加減ウンザリしていた。
 知り合いに職業軍人の息子がいた。彼の母親は、軍人の娘で軍人と結婚した、生粋の「フランコ贔屓」である。「フランコの頃は良かった」「フランコの頃の方が暮らし易かった」「フランコの頃はこんなに物騒じゃなかった」「フランコの頃はこんなに物価が高くなかった」…
 そのお母さんが「フランコの頃はこんなに雨が降らなかった」って言ったと、知り合いは苦笑した。彼は生粋のアンチ・フランコだったのだ。まあフランコ総統が幾ら偉くっても、自然現象までは左右できなかっただろうと、思います。

 独裁者による全体主義国家だったスペインでは、治安が非常に良かったそうだ。マドリッドには「セレーノ」と呼ばれる夜警がいて、受け持ち区域の建物の「主玄関」の鍵を全部預かってたらしい。夜遅くに帰って来た住人が、自分の家の前で手を叩いて「セレーノ」と呼ぶと、巡回中のセレーノがやって来て門を開けてくれたらしい。「らしい」というのは、筆者が留学した頃にはもうその制度がなくなっていたらしい、のだ。でもセレーノ達が巡回するマドリッドの夜が「安全」だったという事は、反フランコ派も否定しないようだ。民主政治に移行した時に、この「夜警制度」だけは取っとくとか、できなかったのかしらん?
 2・3年前に、マドリッドの一部で似たような制度を「復活」させるというニュースを新聞で読んだような気もするけど、記憶が定かでない。

 留学時代に一度だけスリに遭った。普段乗らない地下鉄に乗って、中央郵便局まで日本からの小包を受け取りに行った。地下鉄の中で妙に体を摺り寄せてくる男がいた。スペインにも痴漢がいるのか? 初めてだ、と思った。郵便局に着いて小包の保管料を払おうとしたら、財布がなかった。たまたま居合わせた日本人が、保管料の百ペセタ余りと公衆電話をかけるための5ペセタを出してくれた。確か「空手の先生」でした。住所を聞いて「返しに行きます」と言うと、手を振って断った。
スリに遭ったのも、知らない人にお金を貰ったのも、生まれて初めてだった。

(中略)

 貸家時代にも2度掏られた。1度はバスの中で、やはり「痴漢」かと思った。スペインの諺に「人間は同じ石に2度までもけ躓く唯一の動物だ」というのがありますが、ほんとです。「地下鉄のスリ」の経験が生きてない! スリよって来た時に思い出してなきゃいけないのに、「痴漢」を避けることにばかり気を取られていた。そこが「プロ」の技なんでしょうが!? 
 犯人がバスを降りてからその辺に投げ捨てた財布を、たまたま拾った通行人が、中に入ってた住所を見つけて届けに来たと、帰って来た入り口でポルテーロのマノロに聞くまで、掏られたことに気づいてなかった。
 幾らくらい入ってたかは覚えていない。せいぜい4000ペセタくらいでしょう。ATMから5000ペセタづつ現金を引き出していた時代だ。何か特別な事情でもない限り、財布に5000ペセタ以上のお金が入っていることはなかった。財布も戻って来たし!

 2度目はある年の、バレンタイン・デーが土曜日と重なった日だった。バレンタインなんて関係ない筆者は普通の「土曜日の買い物」に出かけただけでしたが、デパートはプレゼントを探す人でごった返していた。台所用品か何かを買って大荷物になった。我が家に着いてから財布がないのに気づいた。最後の買い物をしたあとに残ってた現金は僅か400ペセタほどだったが、キャッシュ・カードとクレジット・カードが入っていた。
 即座にカード・センターに電話した。話し中。何回かけても話し中。最後に番号案内にかけた。「あのー、カードを盗まれて、というか財布を盗まれて、その中にカードが入ってたんで至急連絡したいんですが、カード・センターが幾らかけてもつながらないんです。×××××××以外にカード・センターの番号はありませんか?」電話局の案内嬢はこう答えた。「なんとまあ! カード・センターの番号問い合わせばっかりある日だこと! 今日はそういう人達にとっては、すごくミイリのいい日に違いないわ!」

 番号案内が教えてくれたカード・センターの秘密の番号(?)で、無事2枚のカードを使用不可にする手続きを終えたらリラックス。現金400ペセタと大して惜しくない財布。被害は最低限だった。ほかの買い物を済ませた後で、最後に「大荷物」を買ったから良かったんだ。現金が殆ど残ってなかった。でもやっぱりプロだなあ。「大荷物に気をとられてる」カモをちゃんと見てたんだ…
 電話が鳴った。「失礼ですが○○○さんですか?」「はい、そうですが…」「実はさっき、デパートで買い物して出てくると、道路に停めてあった車の上に財布が1個のっかってまして…それで中を見ると、カードが入ってまして…そのカードの名前を見ると滅多にない名前だったんで…もしかすると電話帳で調べたら分かるかもしれないということになりまして…それで見てみたら…出てたんです…この番号が…それでかけてみたんですが…もしかして財布を無くされましたか?」はい、無くされました。でもほんとかなあ、ちょっとデキスギてないかなあ……さっきの今だよ! 犯人とか、犯人にかかわりのある人がかけてくるってことは……ないのか?
 スペイン人の友達に応援を頼んだ。「万一ってことがないとも言えないから、引き取りに行くのに付いてってくれる?」。電話で教わった住所に二人で出向くと、そこは犯罪者の巣窟ではなく、普通の建物の中の普通の家で、電話をかけてくれた人達は普通の家族でした。財布を受け取って帰ろうとした時、奥さんの方が聞いた。「現金、たくさん入ってたの?」「いえ、ほんの400ペセタくらい。買い物したあとだったから。」「良かった、そりゃ泥棒も舌打ちしたに違いない!」
 そう言って笑った。私もそう思います。苦労して掏った収穫がたったの400ペセタなんて、いい気味!

 これが「財布を掏られた」最後である。3回掏られれば、こっちも被害者のプロになる。余分な現金は絶対に持ち歩かない。カード・センターの2つの番号を手帳にメモし、手帳を換えるたんびに書き写した。何かあったらすぐかけられるように。そうやってあとはリラックスして歩く。大体プロのスリってのは、「慣れてなくて」「緊張してる」ような人を狙うのです。「お上りさん」や「大金を持ってる」人を、プロの勘と経験で見分けるんだと思う。スペインに長く住んでて、スペイン人と同じように「大金を持ってない」日本人は、きっとそう見えるに違いない!?

 日本人旅行客が、旧市街の観光スポットやレストランの近くで、置き引きや強盗に遭うという事件が増え始めた時、自分は狙われないだろうと思った。「経済大国」の日本人は、いい服を着て、高価なカメラや現金をいっぱい持って、海外を旅行するようになってたのだ。

 数年前、新しいタイプの犯罪が現れた。日本人を狙い撃ちする。目的は日本のパスポート。裏に中国人のマフィアがいる、と言われていた。日本のパスポートは海外脱出を夢見る中国人に高く売れるらしい。一冊2万くらいで買い上げて、それに偽造写真とアメリカのビザを付けると、百万単位で売れる…というようなルポルタージュを、スペインのテレビで放映したそうだ。それくらい同じような事件が続いていた。
 実際に手を下すのは中国人ではない。本国では生きていけないと「不法入国」した外国人達である。たった2万のために罪を犯すことを厭わないほど切羽詰まっている。そしてプロの泥棒ではない…

(中略)

 3年前のクリスマスの少し前だった。バレエのスタジオからリュックを抱えて帰って来るところだった。リュックの中には汗になった衣類と僅かの現金が入っていただけだった。その日は地下鉄を使った。地下鉄を降りて、ちょっと近道しようと思った。夜の9時前で、付近の公園では近所の人が何人か犬を散歩させていた。その公園からの、一瞬の死角に入ったところで、いきなり後から首を絞められた。上背のある男だったのだろう。肘を曲げた腕ががっちりと首に嵌めこまれて、声が出せないどころか息もできない。…me estan atacando (襲われてるんだ)…とスペイン語で思った。それでも気を失わないでいたら、前に回って来た共犯者が、左肩のリュックを取りざま、指で額の真ん中を弾いた。それが最後に見たものだった。

 ヘンチクリンな夢をいっぱいみながら目を覚ましたら、歩道のすぐ近くに寝転がってた。そうだ、襲われたんだ…リュックは?…なかった。お気に入りのリュックだったのに、取られてしまった…生まれて初めて気を失った。その間恐らく何分も経ってない。未だ人通りの多い通りから見える場所だったのに、偶然誰も通らなかった。それくらいの時間だ。
 ひとりで起き上がって歩き出した。幸い体はどうもないようだった。自分が襲われてしまったショックと、家にどうやって入ろうかと考えながら、5分くらいの道を歩いた。どんな顔をしているのだろう。でもすれ違う人は誰も特に見咎めるようではない。手で触っても血とかが出てるわけではないようだ…家に着き、管理人を呼び出そうとして、声が思うように出ないのに気づいた。鍵を開けて貰ったところで、「警察に届けなきゃあ」と思った。

(中略)

 警察に電話したら「大丈夫ですか? 医者に見せなくていいですか?」と聞かれた。やっぱり見せた方がいいのかもしれない。番号を教えて貰って救急医療サービスにかけた。担当医師は「たとえ少しの間でも気を失ったのなら、医者に見て貰わないといけない。病院に行きなさい。誰か付いてってくれる人はいますか?」と尋ねた。いないと答えると救急車を手配すると言った。救急車で迎えに来てくれた若い男女のチームは、「急病人」が自分で戸を開けたのでびっくりしていたが、話を聞いてテキパキと行動した。救急車で病院に運ばれる途中、色々と話しかけてリラックスさせようとしてくれた。病院に着くと車椅子を持って来て「これに座りなさい、その方が早くアテンドしてくれるから」と言った。自分の足で歩けたけど、言われた通り受付まで車椅子で運ばれた。2人は本人に代わって受付手続きをやってくれると、救急車に戻って行った。

 簡単な検査を受けた結果はどこにも異常がなかった。警察に届け、2日後の検査を病院で受けたあとは、緊張がほぐれて行った。直後の簡単な検査では分からない小さな傷が脳についていて、時を経て出て来るのではないかという心配も、1・2ヶ月経つと薄れていった。
 刃物を目の前に突きつけて脅されるよりはトラウマが少なかったのかもしれない。ほとんど何も見ず、そして何も聞かなかったのだから…
 会社では一躍話題の中心になってしまった。話を聞きつけたスペイン人達が他の部からもやって来て、口々に同情と連帯の言葉をかけていった。「犯人はスペイン人か?」と気にする人も多かった。私が特定の事件で全体を判断する人間ではないと知っている人達は何も聞かなかったが、普通はスペイン人がそういうことをすると言われたくないのだ。「親切で気のいいスペイン人」「外国人でも住み易い、ずっと居たくなるスペイン」…
 
 筆者も犯人がスペイン人だったとは思いたくない。スペイン人にしては2人とも背が高く、意識を失う前に垣間見た若い男は、髪も目も薄い色をしていたような気がした。敢えていうなら北欧系か東欧系の特徴だろうか…警察でもそう証言したのは、ポーランド人による路上犯罪の噂を聞いていたからかもしれない。

 それにしても、事件の夜病院に迎えに来てくれた友達も言ったように、あんな乱暴しなくっても、「寄越せ」と言ってくれればリュックくらいあげたのに! でも彼らは「目撃」されたり「声」を聞かれて、犯人と特定される事を極力避けているのだと思う。無言で後から襲い、気を失わせる。
 2番目の男を垣間見てしまったのも、私が首を絞められただけでは気を失わなかったのでやむを得ず前に出て来て、「急所」を指で弾いたのかもしれない。額の真ん中に急所があるのかどうか知りませんが、とにかくそれで、私は気を失ってしまったのです。あとも残らないような一撃、というか「ひとはじき」で。

 被害者を後から襲って首を羽交い絞めにするその手口は「マニュアル化」されてるという人もいる。つまり「プロ」でなくてもできるような「日本人の襲い方」マニュアルが出来ているというのだ。お金もパスポートも持ってない、汗になった衣類をリュックに入れて地下鉄から歩いて来たような日本人を、そうと見分けられないのは、確かにプロとは思えない。それに昔のプロなら、盗まれる方が気付かないうちに盗んじゃったもんだ。
 やはりテレビのルポルタージュは本当なのかも知れない。生活に困った、手段を選ばない不法入国の「移民」たちが、たった2万ぽっちでパスポートを買い上げてもらうために、日本人を狙い撃ちしている…

(後略)