11. 路上の人(抜粋)

(2003年に通算20年以上生活したスペインから日本に帰国。翌年ホームページで発表した『フラッシュバック・スペイン』の一部です。) 

 80年頃の日本には、乞食とかホームレスっていなかった。経済大国への道を驀進中? 
「飽食の時代」なんて言葉が使われ始めた頃で、たまに見かけるルンペンのような人達も、物乞いなんかしなくても生きていけるって言われてたんじゃあなかったっけ?

 その頃のスペインでは街のあちこちに「物乞い」が居た。「失業中」「乳飲み子がいます」「エイズに罹ってます」…ボール紙に色んなことを書いて、首からさげたり、路上に立てかけたりしていた。スペイン内戦の戦傷者なのか、切断された足をむき出しにして路上に座っている人もいた。
 「世の中お互いさま」のスペイン人達は、結構「施し」をする、と思う。そういう統計があるわけではないので比較はできないけど…。そういう光景が見られなくなって久しかった80年の日本から行った筆者には、「かわいそう」よりも一種の恐さ、気味の悪さが先に立った。そういう人達を見ると、「物乞い」されないように足早に通り過ぎた。

 旧市街の中心地、プエルタ・デル・ソルやプラサ・マジョールの辺りはいつ行っても人が一杯だ。それを目当てに色んな大道芸人がやって来る。音楽学校生みたいなのや、放浪中の外国人のようなグループ、そしてたまには映画に出てくるような昔ながらの大道芸も見られる。
 留学時代、そのプエルタ・デル・ソルからカジャオ広場に抜ける歩行者専用道路で、いつもフラメンコを演奏しているジプシーの少年達がいた。兄弟なのか、十歳くらいの「唄い手」を先頭に5・6人。2番目の少年がギターを弾いて、おチビさん達は手拍子を取ったり合いの手を入れたりしていた。通行人は路上に置かれた入れ物に小銭を投げ入れて行く。結構うまくって、いつも人だかりがしていた。最後にその辺りを歩いた時、お兄ちゃんは変声期で「唄う」のが苦しそうだった。

 3年後マドリッドに「再定住」した時、同じところでフラメンコを演奏する少年グループを見かけた。唄い手は交代していて、もしかしたらギター奏者の次の弟だったかもしれない。初代に比べるとちょっと落ちた。

 人の集まるその場所には、今でも色んな人がやって来る。ミュージシャン、パントマイム、露店の物売り……でもジプシーの少年ミュージシャン達は居なくなった。大人になってどこかのフラメンコ酒場ででも演奏してるのか、それとも職業を変えたのか?
 
 ジプシーの職業には幾つかあるみたい。得意な音楽や踊りを生かしたアーティスト、山羊の曲芸、宝くじ売り、花売り、占い、バタ屋、物乞い…「物乞い」を生業とするジプシー達は子供の頃から「物乞い業」を習得する。彼らにとってはそれが仕事なのだ。

オマジナイ

 「弁護士の妻」と「建築家の妻」の貸家があった通りを、太ったジプシーのオバサンが行き来するようになった。ある朝出勤途中でそのオバサンにつかまった。「お姉ちゃん、手相見たげるよ、当たるんだよ。」いつもは笑って通り過ぎるのに、その時何故か見て貰う気になった。
 ジプシーの手相見は私の手の平を指でなぞりながら、「ほら、ここであんたに呪いをかけたヤツがいる。あたしがオマジナイしてやろう。効くんだから!」と言った。ジプシーなんてもっとエキゾチックなことを言うのかと思ったら、結構キリスト教っぽいオマジナイだったような気がする。

 オマジナイが終わると彼女は、5000ペセタを要求した。私の小遣い一週間分。思わず「ノー」と言ったら、2000ペセタになった。未だ渋っていると500ペセタの宝くじを1枚つけると言った。「絶対当たるんだから!」……つまり1500ペセタか、オマジナイは。それくらいならまあ、オマジナイが効かなくっても法外な値段ではないし、ケチってオマジナイが効かなくなるよりはいいか!? だが財布の中にはATMから引き出したばかりの5000ペセタ札一枚しか入ってなかった。1週間に5000ペセタあれば普通の事が足りた時代だ。「5000ペセタでお釣りある?」「お、お釣り? いいともさ、お釣り、やるよ、やるとも…えっと幾らだっけ…」「3000ペセタ」「ん、そっか、3000ペセタか…」焦ったオバサンはお釣りを出そうとして、留め金の付いた黒いがま口バッグの口がパクンと大きく開いてしまった。中には5000ペセタ札が百枚以上入ってたように見えた。私よりずっとお金持ちじゃん!
 彼女は慌ててバッグの口を閉めた。「細かいのがないから、お姉ちゃん、両替しておいでよ、待っててやるから」。出勤前から開いてる行きつけの薬屋さんの真ん前だった。入って行くと、一部始終を見ていた薬剤師は、笑いながら私の5000ペセタ札を両替してくれた。1000ペセタ札2枚を彼女に渡し、宝くじを1枚受け取ると、彼女はこう言いながら去って行った。「お姉ちゃん、運が良くなるよ。この宝くじは絶対当たるんだよ」。去って行く背中に答えた。「もしも当たんなかったりしたら、どうするか…(見てなさい)」

 宝くじ、当たりました。末尾の何桁かで、賞金2000ペセタ。きっかり投資しただけ戻って来た。
 数日後、会社から帰って来るところでオバサンを見かけた。宝くじが当たったよと、教えてやろうと思ったのに、自分の売った宝くじがよもや当たるとは思ってなかったオバサンは、こちらの姿を見かけた途端、そそくさと通りの反対側に渡ってしまった。

 
ソフィア

 その女性が「物乞い」するところをツイゾ見かけたことがない。大柄で骨ばった体つきに険しい顔立ち、頭はお坊さんのように剃って、いつも遠くを見るような目をしていた。一度見たら忘れられない風貌だった。旅行中に一度すれ違っただけの母が、何年も経ってから「うん、居たよ、インテリみたいな乞食の人…」と思い出したくらいである。長い路上生活でなめされたような顔の色にハリクリシュナみたいに剃った頭、哲学者のような風貌、そして一度も物乞いしてるのを見たことがない……生活苦というよりは、何かの主義で路上生活をしてるような感じがした。そういえば外国語のお経の文句みたいなのをブツブツ呟いてたこともあるし……

 自分の家を持って暫く経った頃、「貸家」時代から時々見かけたその人が、家のベランダから見える小さな公園を夜の根城にしていることに気付いた。昼間は近くのスーパーの角で座ってたり、全財産を入れたスーパーのカートを押しながら散歩(?)したりして、夜になるとその公園に戻って来るのだ。昼間はどこに仕舞っておくのか知らないが、専用のマットレスもあるみたいだった。
 家こそないが、他のものは何でも持ってた、ように見えた。陽射しのきつい時はサングラス、寒い時は毛糸の帽子、洋服も靴も何種類も持ってて、腕にはブレスレットが光っている。だからやっぱり、お金がないからではなくて、「家」に住むという事を拒否してる…仙人か隠者みたいな人なんじゃないかしらん?

 ある時たまたま、初老の紳士が彼女にお金を与えるのを見た。彼女の方から物乞いしたわけではない。紳士は小声で「どうぞ」と言って彼女にお金を差し出し、彼女は目を合わさずにそれを受け取った。ということは……やっぱりお金がなかったのだ。ホームレスにしてはいっぱい持ってる洋服や靴も、みな近所の人達が与えたお古なのか? 数年前には誰かが、着なくなった毛皮のコートを上げたみたい。毛皮のコートを着たホームレスは、世界広しと言えども、彼女一人だったのではないだろうか?

 休日の朝、家のベランダから公園を見ると、彼女が公園の水道で洗濯してるのが見えた。洗った衣類は近くの潅木の上に広げて乾かす。編み物や縫い物をしてることもあった。ボトルに入れた水を近くのレストランの外周りの植木にかけていたこともあった。家はないけれど、それ以外は精一杯普通の生活をしようというような「意志」が感じられた。
 クリスマス・イブの日、買い物客で賑わういつものスーパーの角に、彼女は座っていた。見たこともない一張羅を着て。黒いフェルト地に赤い毛糸で刺繍した、民族調の上下だった。クリスマス・イブをホームレスなりに祝おうとするかのような姿に、胸を衝かれた。彼女が「主義」でホームレス生活をしているのではないと、気づきかけた頃だった。

ある日、公園の前に人だかりがしていた。お巡りさんが居て、救急車も来ていた。通行人が怪我でもしたのかなと思った。公園にも通りにも彼女の姿を見かけなくなったことに気づき、あの日の人だかりをそれと結びつけたのは、ひと月くらいも経ってからだった。もしかしたら彼女に何かあったんだろうか? 鋼鉄の意志と、そして体を持っているように見えたけど、具合でも悪くなったんだろうか? どこに行っちゃったんだろう…

 偶然同じ通りに住んでいた知人に真相を聞いた。彼女の名前はソフィア、つまり「叡智」。夫に捨てられてホームレスとなった。地域のミニ新聞に彼女の記事が出たこともある。市や教会が何度も助けの手を差し伸べたが、彼女はいつもそれを断った。頑なにホームレス生活を貫いた。具合が悪くなってどこかに運ばれた。

 救急車を呼んだのは近所の人だったのだろうか? 人生の最後の数年をどこかの施設で、少しは安楽に暮らせているのだろうか?

(後略)