14. ヨーロッパの底力(抜粋)

(2003年に通算20年以上生活したスペインから日本に帰国。翌年ホームページで発表した『フラッシュバック・スペイン』の一部です。) 

 生まれて初めて行った「ヨーロッパ」の国はイギリスだった。1982年の夏の終わり、2年間のスペイン留学を終えて日本に帰る時にロンドンに一泊したのだ。なんせその頃のスペインはヨーロッパじゃなかったですから!

 スペインで手配した東京までの格安切符のフライトは、マドリッドからロンドンのガトウィック空港に到着し、翌日ヒースロー空港から日本へ向けて飛び立つようになっていた。ガトウィックから市内にあるビクトリア駅まで電車が出ていて1時間くらいで行ける、翌日のヒースロー空港までは地下鉄がある、と旅行社に説明された。ビクトリア駅の近くのホテルを予約して貰った。
 ガトウィック空港からビクトリア駅までの電車に何とか乗ったが、予定を変更して1等車で行くことになってしまった。取りあえず乗った車両が1等車で、そこから2等車まで、ひとりで重たいスーツケースを抱えて移動するのは非常な努力を要する、という事に気づいたのだ。スーツケースの他にバッグと、更に手荷物があった。旅慣れてない人間の「取りあえず乗って中で移動」というプランは甘かったのだ。
 1等コンパートメントに居合わせた初老の紳士は、私が試行錯誤のあとで1等車に留まることにしたのを見て、「良かったら差額を払わせて下さい」と言った。「いえ、大丈夫、自分で出せます」。紳士の物腰は落ち着いていて上品だった。ひとりで悪戦苦闘してる東洋人の娘を見て、心からの親切で声をかけたようだった。
 私達は英語で話し始めた。が、元々英会話なんて習ったことがない上に、それまでの2年間、スペイン語ばかり話していたのだ。ついスペイン語が出そうになるのを押さえ、考え考え喋っているうちに、遂にスペイン語で「えーと」と言ってしまった。驚いたことに紳士はスペイン語で答えた。
 「スペイン語を話すのか?」なんと、イタリアはジェノバ生まれのスペイン人だったのだ。おまけに国際的ビジネスマン。現在はイギリスに住んでいる、妹は東京にオフィスを持っている、と言った。「ガトウィックからビクトリアに行く電車の中で、スペイン語を話す日本娘と出会うなんて、最後に予想したようなことだ!」[つまり予想だにしなかったということです。]車掌が回って来た時、今度はスペイン語で言った。「是非差額を払わせてくれないだろうか?」「いえ、ほんとに大丈夫なんです。自分で払います。」
 1時間の電車の旅を終えてビクトリア駅に着いた時、自分の乗るタクシーで途中ホテルまで送ろうという申し出を断るのは、余りにも杓子定規な気がした。ホテルは通りのすぐ向こうだったけど…通りの幅は広いし、普通の道路をスーツケースその他を抱えて歩いて行くのは、これ又結構大変そうだったのです。タクシーがホテルの前に停まると紳士は車を下り、一番重たいスーツケースを軽々と抱えて、階段の上の入り口まで運んでくれた。素敵な「イングリッシュ・ジェントルマン」でした!

 ホテルに着いたあと地下鉄の下見に行った私は、その人ごみとエスカレーターを見て、今日と同じ荷物を抱えてひとりで移動するのは無理だと思った。翌日のヒースロー空港へはタクシーを使うことに決めて、ホテルの近くを散歩しに出かけた。何の予備知識も仕入れて来なかった「海外旅行の素人」には、土産物の屋台を覗くくらいしかできなかった。早々にホテルに帰って、夕食もホテルで取ることにした。レストランのメニューを見ながら料理について聞いた時、又スペイン語が出てきた。ボーイは中南米出身だった。
 「ヨーロッパ」での初日は、そうやってスペイン語ばかり話して過ぎた。

 2度目のヨーロッパはイタリアだった。バレンシアでの鉄鋼関係の技術協力の第一期を終えて日本に帰る途中、留学時代に語学学校で一緒だったイタリア人の友達を訪ねたのだ。仕事で貰ったエグゼクティブ・クラスのチケットは、スペインから日本に帰る途中の経由地をローマに替えることができた。友人はローマで乗り換えてナポリへ、そしてナポリから更に電車で1時間ほど行ったところに住んでいた。ローマからナポリのフライトがキャンセル待ちになった。電話に出た彼女は、ローマの空港から電話をしてくれればナポリまで迎えに出ると言った。
 ローマ空港で国内線の乗り場を探して右往左往した。イタリア語と同じラテン語系のスペイン語での質問は、みんな分かってくれるのだが、こっちがイタリア語の返事を理解できなかったのだ。最後にやっと、通りかかった空港の職員が、「下へ」というスペイン語をイタリア語式発音で言ってくれているのに気づいた。
 国内線のゲートに着いたあと、マドリッドの旅行社で既にキャンセル待ちを申し込んでいた私は、ただ座って待っていればいいのだと思っていた。ゲートのカウンターにチケットを差し出し、キャンセル待ちの確認をしなくてはいけないことを知らなかったのだ。それに気づいた時にはもう搭乗が始まっていた。キャンセル待ちの手続きをした乗客達が順番に名前を呼ばれて、搭乗券を渡されて行く。
 カウンターに行って必死のスペイン語で訴えた。キャンセル待ちはマドリッドから申し込んであった。ずっと前に着いてたのに、ここでもう一度申し込まなきゃいけないのを知らなかった。あそこでずっと座って待ってたのに、友達にはこのフライトで行くと連絡してしまったのに…
 カウンターの男性職員は、ずーっとその前に座っていた私を見ていた筈だ。スペイン語の訴えも分かった筈だが、こちらの目を見ようとはせず、「まあまあ」というジェスチャーをしただけだった。
残りの座席が殆どなくなったかと思う時、彼が手元に残ったチケットの順番を入れ替えた、ような気がした。最後の座席を私に割り当ててくれるために…
 友達の家に2泊して、ローマもナポリも見ずに日本に帰った。

(中略)

 その港町に着いたのは9月の終りだった。スペインのホテルは沢山の人が夏休みを取る7・8月がハイ・シーズンで料金も高い。年次休暇と予算を年末年始の日本への旅行で使おうとすると、夏休みの真っ最中に大掛かりな旅行はできなかった。それに8月のマドリッドは人も車も減って、結構快適なのです。
 マドリッドから南へ特急列車で半日のそのあたりは、その季節でもまだ海水浴ができる。パンフレットに出ていたホテルの写真は綺麗で、町の旧家を改造したものだそうだ。でもひとりで海水浴っていうのもあんまり楽しそうでないし、他に面白いことあるのかしらん? イタリア人の友人のような旅のベテランではない、それまで友達にくっついて行く受身の旅行が多かった私は、その街のことも余り調べてなかった。旅行社が取ってくれた列車のシートは行きも帰りも何故か13番。期待と不安の入り混じった気持ちで駅前のタクシー乗り場に並んだ。
 タクシーを待つ人の列はせいぜい20人くらいだった。電車を降りた人間はもっといたが、大半は家族や友人が迎えに来ていた。まっすぐバス停に向かう人たちもいる。前に並んでいた男性が言った。「普段この駅にはもっとタクシーがいるんだが、今日はどうしたことか…」
 いかにも田舎の小父さんといった、小太りで銀髪の男性だった。「この町の方ですか?」「そうだ、あなたはどこに行くんですか?」「XXXホテルです」「そりゃうちの近くだ」うちの近くだって……タクシーに相乗りしようとか言い出すかしらん? 土地の人と一緒ならタクシー代ボラレルことはないかもしれないけど、どういう人なのか……駅前のバス停にバスが来て停まった。
 「あのバスに乗っても行けるんだが…荷物があるからなあ…」小父さんは自分の小型カートと私のキャスター付きトランクに目をやった。それにしてもタクシーが来ない。バス停には何台かのバスが来て、そして出て行った。小父さんはそれ以上無理に会話を続けようとはしなかった。
 やっとその小父さんの番になった時、やって来たタクシーは、マドリッドでは久しく見なくなったような古びた車体だった。タクシーの運転手と小父さんは友達みたいだ。親しそうに挨拶を交わしたあと、小父さんは振り返って言った。「良かったら一緒に行きましょう、近くだから」。
 悪い人ではなさそうだし、態度に節度もある。それに次のタクシーはいつ来るか分からない。相乗りを決心して足を踏み出すと、小父さんは「このお嬢さんはXXXホテルに行くんだ」と運転手に言って、私の荷物をトランクに積ませると、自分はさっさと助手席に乗り込んでしまった。街に向けて走り出したタクシーの中で、小父さんと運転手は、後部座席の日本人などそっちのけで世間話に興じている。5分ほどで街の中心部に着くと、小父さんはそこまでの料金350ペセタくらいを払って、又さっさと降りて行った。旧市街の中心部で城壁のようなものが見えた。再び走り出したタクシーの中で、運転手は後を振り向くと言った。「お客さん、このお城の持ち主と相乗りなすったんだよ!」「は?」状況を把握できない筆者に彼は説明し始めた。お客さんが一緒にタクシーに乗った男は、この港で一番の金持ちだ、あのお城を持ってんだから。自分と彼は幼馴染で、彼が北の方に持ってる別荘に遊びに行ったこともある…未だよく分からないでいる内に、タクシーはホテルに着いてしまった。小父さんが降りたところからホテルまでの料金は、昔のマドリッドのタクシーみたいに安かった。観光地のタクシーでボラれなかった。これは幸先がいいかもしれない。

 数日後、ホテルのレストランのボーイとお城のガイドさんの話を繋ぎ合わせた真相は次の通りである。
 この港町は古くから通商によって栄えていた。町の中心にある城には、古くフェニキア時代の石が使われており、紀元前後から町があって、城が建てられる以前にも、そこに町の中心となるような重要な建物があったことが推察される。近世以降には世界貿易等で財を成した豪商が何人も出て、町の有力者となった。彼らが建てた豪邸の幾つかは「宮廷のような家」と呼ばれて今も残っている。しかし現代になって、その歴史的建築物の最たるものである城は、有効な保存の手段もなく、荒れるがままになっていた。そこで当時市長だった有力者が私財を投じて城を買い取り、保存に乗り出した。その市長の家は、この町に幾つかある古くからのワイン造り酒屋で、その「私有財産」である城は家族に受け継がれた…つまり「田舎の小父さん」の家は古い歴史のあるこの町で市長を出したこともある旧家、全国的に有名なワイン・メーカーの社主のお家柄で、筆者はもしかするとその「当代」と、古びたタクシーに相乗りしてしまったのです。

(中略)

 日本に帰ることを決めた時、ヨーロッパ旅行をしようと思った。それまで年次休暇の大半を日本への一時帰国で使っていたので、普通の日本人が「スペインに居る間に」行くヨーロッパ旅行というのを殆どしていなかった。一度に全部を回るわけには行かない。日本に帰ってからでも「ヨーロッパ旅行」はできるだろう。でも帰る前にウィーンとパリだけは行こう……いつ頃からそう思っていたのか、よく分からない。ウィーンを舞台にしたテレビ・ドラマ・シリーズで見る街並みや家は、正に旧いヨーロッパのものだった。パリはバレエの本場だから? どちらも「ただ歩く」ところが一杯ありそう…とにかく何故か、ウィーンとパリには行っとかないといけない、ような気がしたのです。

(中略)

 どちらの街も、その建物のひとつひとつ、街角の全てが美しい。ヨーロッパの歴史と文化が街全体にたちこめている。かといって新しいものを拒んでいるわけではない。若者達や、そして世界中から来る移民や旅行者を呑み込んで、そして同化してしまう、揺るぎのない大人の文化と成熟した街並み。
 ヨーロッパはやっぱり「ヨーロッパ大陸」なのだと思った。島国のイギリスや、アフリカに近いイベリア半島ではない。昔からの歴史と文化が詰まった中央ヨーロッパ。支配勢力や国境が変わりながら綿々と続いて来た文化の積み上げが、「旧いヨーロッパ」にはあるような気がした。スペイン人には悪いけど、こんなに成熟した都市はスペインにはないよ。綺麗な村はいっぱいあるけどね。まるで大人と子供だ。今度ヨーロッパに来る時はフランスにしよ…

 子供の頃、「ヨーロッパは疲弊している」と習った。私の頭の中には「旧い歴史や文化はあるが、同じく旧い社会制度にがんじがらめになって、若い活力のないヨーロッパ」「近隣諸国の間で昔から争いを続けて来て、中々ひとつになれず、技術や経済で日米に遅れを取ったヨーロッパ」というイメージが、ずっとあった。ごく数年前にも「ヨーロッパのインターネットはアメリカや日本より2年遅れてる」というような事を聞いたりした。でもスペインに長く住むに連れて、そしてそのヨーロッパへの統合が進み、デジタル衛星放送などで他のヨーロッパ諸国の文化を見聞きする機会が増えるに連れて、それまでのヨーロッパ感が消えてしまった。
 アメリカや日本って、要はイナカなんじゃないの? 技術が幾ら進んでも、それに乗っけるコンテンツがなかったら、或いは幼稚だったら、大したことができないんじゃない? でもこれって、もしかしたら「嫌みで鼻持ちならないヨーロッパ人」の言うことかしらん??

 そうじゃない。ヨーロッパって、やっぱ、ハンパじゃないよ。韻を踏んだわけじゃありません。何故か行っておかなければいけないような気がしたウィーンとパリで、心底、ほんとに、そう思ったのだ。日本にも歴史や味わいのある町というのは、きっとある。でも規模と文化密度が、多分全然違う。それに最近のヨーロッパは技術面でも結構頑張ってるみたい!?

 現在の日本では、世界中の食べ物が食べられて、世界中のファッションが手に入る。そして世界中の素晴らしい芸術文化を鑑賞することができるという人もいるけど、あれは錯覚です。6ヶ月以上も先の週末の予定を決めて、1万、2万という大金をはたいて、競争で予約しなきゃいけない、それでも中々取れないようなチケットの、一体どこが文化ですか? 1週間とか、せいぜいひと月前に予約すれば十分で、おまけに若いお金のない人には1000円くらいで買える立ち見席や当日売りのチケットが、何世紀もの歴史があるオペラ座で取れる、それが文化です! 

 日本にも素晴らしい伝統芸術や芸能がある。でも例えば日本人の一体何千人、或いは何万人に一人が、年に1回歌舞伎や能を見ることができるのか? そういう芸術や文化の「層の厚さ」が全然違ってる気がするのだ。

 老大陸と言われ、世界経済の中でもアメリカや日本に遅れを取ってたように見えたヨーロッパが、統合を成し遂げつつある。そういえばユーロが導入された年、アムステルダムの空港で、始めてペセタに換算しなくてもいいコーヒーを飲んだ時、ヨーロッパってスゴイことやったんだと実感したっけ。様々な違いを乗り越えて、統合に向かって歩いて行くヨーロッパの大人の決断と底力…やっぱ、ハンパじゃないよ!

 日本に帰ってからある人と、日本人の「民度」が下がってるという話をした。彼は「最近の若者は…」っていう禁句がつい出るって言った。筆者も「日本人、負けてる」って言った。スペインから見てると、欧米人もアフリカ人も、中南米人も、そして他のアジア諸国の人たちも、何故か日本人よりずーっと逞しく見えたって。明治維新を支えた日本人達、戦後の復興、そして高度経済成長を支えた日本人達は、一体どこへ行っちゃったんだろう…でも昔の日本の方が民度が高かったのだとしたら、その「昔の日本人」はそれを次の世代に伝えることができなかった、ということになりませんか?

 若者は世界中にいる。だから世界中に若者文化はある。でも敢えて言うなら、ヨーロッパの大人たちは、若者や若者文化に迎合してない、と思う。
 伝えるものがあるのなら伝える努力をしなくてはいけない。「最近の若者は…」っていうのが「禁句」になるのは、大人がその努力から逃げてるんじゃないだろうか?

 スペインの南の港町に行った時、本気でそこに住んでみたいと思った。最後の日に空き時間を利用して、町の不動産屋に行ったくらいだ。そういえば昔ロンドンに行った時も、アムステルダムに行った時も、暫くそこに住んでみたいと思ったっけ。要は観光地巡りよりも、街自体が好きなんですね。
 でも観光バスに全然乗らなかったわけではない。そしてオプショナル・ツアーではいつもスペイン語ガイドが付いたのを選んだ。一般にその方が日本語ツアーよりも種類が多くて、料金も安いのです。
 ヨーロッパの観光地ではどこでも、数ヶ国語話せるガイドがいるのが普通だ。最低でも英西独仏の4ヶ国語くらいを操るので、スペイン語を知ってると便利だ。ローマでもアムステルダムでも、スペイン語のツアーに乗った。同じ説明を4カ国語で繰り返しながら、世界中から来た観光客を引っ張って行くガイド達を見てると、ヨーロッパだなあと思う。隣国と陸続きで、国境が時代によって変わったヨーロッパ大陸では、「外国」や「外国語」に対する感覚が日本とはきっと違うのだ。世界の東の果てで長いこと鎖国していた「島国日本」を実感するのは、こんな時だ。勿論英語しか知らないイギリス人や、スペイン語しか喋れないスペイン人だって、沢山いるんですけどね…イギリスやスペインはヨーロッパの「周辺部」…なのですよ!