5. アイデンティティー(抜粋)

(2003年に通算20年以上生活したスペインから日本に帰国。翌年ホームページで発表した『フラッシュバック・スペイン』の一部です。) 

 家の固定電話にふたつの電話番号が割り当てられた事件の数年後、健康保険にマグネティック・カードが導入された時、今度は番号の違う健康保険カードが2枚送られて来るという事件が起こった。スペイン人にもなかなか起こらないようなことが、どうして外国人の私に起こるのか? そう、電話番号の件といい健康保険のカードといい、周りのスペイン人でそんな目にあった人は一人もいませんでした。これ、スペインの諸システムの名誉のために、一応言っておきます。

 で健康保険カードが、ひと月くらいの間を置いて2枚送られて来て、おまけにその番号が違っていた時、会社のスペイン人達は口を揃えて言った。「お前、それヤバイよ、将来年金貰う時とかにトラブッたら埒があかないぜ、早めに解決しとけ」って。健康保険と年金が一緒になったスペインの社会保険制度は、長いこと掛け金払って来たのにそのデータが残ってなかったとか、そういうトラブルが中々解決されないとか、そんな話がまあ、時々あるようなのでした。

 カードを申請した社会保険の診療所まで行ってカードが2枚届いた経緯を説明したが、スペインの伝統的公務員の代表たる診療所の受付係は、何が何だかさっぱり分からないという顔をした。実際に分からなかったのだと思う。で「この番号に電話しなさい」っていうので逃げた。
 スペインにも「お役所仕事」はある。最近の若い公務員には溌剌として意欲に満ちた人たちもいるようだが、昔からの伝統的公務員は余り評判がよくない。自主的に仕事をする、などという態度とは程遠い世界にいる。土砂降りの雨の中で街路樹に水をやってた市の職員の話を聞いたことがあるが、スペインの伝統的下級公務員は多分、決められたこと、上司から命令されたこと以外のことを「考える」ことを禁止されてきたのだ。その「スペインの伝統的下級公務員」の典型のような感じの受付係にとっては、診療所にマグネティック・カードが導入されるという事実について行くだけで大変だったと思う。

 翌日、言われた番号に電話して、最終的には情報システム部、みたいなとこに回された…つまり同じことを何度か説明したわけです…
 最後の情報システム部担当者にも、同じことを少なくとも2度は繰り返したと思う。そんなことある訳がないったってェ、現に番号の違うカードが目の前に2枚あるから電話してんのに、さ。
 結局数日後に向こうから電話して来て、正しい番号はこちらでした、もう一枚の方は診療所に返却して下さい…ということで決着を見た。情報システム部の担当者は「新しいタイプの公務員」のようだったが、でもアレ、もしかしたら調べても分かんなくって、片っぽのデータを単純に抹消しちゃう ことに、しちゃっただけじゃないか?

 言われた通りに余ったカードを返しに行ったけど、それを受け取った伝統的公務員は、返却理由の説明にも全然ついて行けてないという顔をしてた。無理ないけど。それにしても返す前にコピーとっとけば良かった、こういう事が起こったんですっていう証拠に。

 後に電話番号と健康保険カードのエピソードを、ある日本人駐在員に話した。彼は何ヶ月も待たされた居住許可証を受け取りに行ったら、別の東洋人の写真が貼られてた、という自分のエピソードを話した。ふたりで「スペインらしいね」「スペインだから起こる話だね」と言って笑った。

 日本じゃまさかそんなことはないだろうって思ってたら、先日テレビに「年金番号」がふたつあった人が出て来た。年金がこれだけしか貰えないと言われて調べてみたら、若い頃に勤めた時の掛け金は別の番号になってて、それを足せばもっと貰えますよ、っていうような話でした。考えてみれば、今ごろ年金を受け取ろうなんていう年代の人が掛け金を払い始めた頃には、情報システムなんてなかったわけだから、そういう事もあり得る。おまけに日本には「身分証明書」制度がないのだ。どうやって個人を特定してたのか…
 もしかしたら、日本ではそんな事は起こりえない、日本人がそんないい加減な仕事をするわけが ない、という方が一種の偏見、もしくは幻想なんじゃないか。

 でもどうして日本には身分証明書制度がないのか?

(中略)

 そういえば「納税者番号」制度っていうのが導入された時は、スペインにも少なからず抵抗があったような気がする。時期はスペインがECに加入しようかって頃だったか…。原則的には身分証明書と同じ番号で(少なくとも外国人の場合はそうでした)、違いは身分証明書には住所や生年月日等の記載があって写真と指紋がついてる。納税者番号カードは番号と名前だけの、薄っぺらい紙のオモチャみたいなカード。
 スペイン人、外国人とも、「居住者」はその「納税者番号」がないと銀行口座を持てなくなった。請求書や受領書にも納税者番号を記入しなくてはいけない。お金の受け渡しをする時には必ずついて回る「納税者番号」。脱税対策が大きな目的のひとつだったのだから、国民が抵抗したのもむべなるかな? でも抵抗など意に介さず、国税庁は2・3年で「納税者番号」制度を社会に浸透させちゃった、ような記憶があります。

 スペイン国税庁にはもうひとつ目標があった。それは「国民に自主的に確定申告させる」事。スペインでは会社の人事部が年末調整を代行してくれたりしない。「払いすぎた」税金を戻して欲しいと思ったら自分で確定申告をするしかない。が、場合によっては追加徴収されちゃうわけです…
 で「国民に自主的に確定申告させる」ための国税庁の納税者向けサービスは年々エスカレートしている。確定申告のための無料相談から始まって、ここ数年は「単純申告」の場合は予約をとって税務署に行けば、その場で申告書を作成してくれる。その他インターネットによる申告や電話申告、申告書作成ソフトの配布、等々、申告作業は年々簡単になってきて、何よりもそうやって国税庁のシステムに乗っかって申告すると税金が戻ってくるのが早い! 手書きで鉛筆なめなめ(?)書かれたものに比べると検算の手間が省けるんだから、当然といえば当然ですけどね。
 昨年は遂に、国税庁の方で所持するデータに基づき予め申告書を作成するというサービスを始めた。この2・3年やっていたように、最寄の税務署に行って申告書を作成して貰おうと、日時を予約して待っていたら、国税庁から電話がかかって来たのだ。
 「税務署で確定申告の予約を取られたようですが…先日こちらから、ご希望があれば、予め作成 した申告書をお送りしますという内容のお手紙を差し上げたんですが、それは受け取っておられますでしょうか?」…そういえばそんなような案内を受け取ったような気がしないでもないけど、意図がよく分からず、そのままにしていた。なんせ確定申告の時期には色んな案内が来るし…対象は納税者全員ではない、試験的実施、と謳っていたような気がする。現に回りのスペイン人でそんな話をしていた人はひとりもいないし……それが又しても外国人の筆者に当たってしまったってことですか?
 「はあ、受け取ったような気もします。意味がよく分からなかったんだけど…」「そういう意味なんです。でよろしければお送りしたいんですが…。間違っているところや補足されたいところがあれば、勿論直して下さって構いません。よければサインして出して下さればそれで申告は終わりますし、別にそれを提出されなくてもよろしいんです。税務署の予約はこのままにしておきますし、一切強制ではございません。実際に提出なさる申告書がそれと違っていても、何らそれに影響を与えるものではございません。」!!!
 ここまで言われたら、「はい、分かりました、送ってみてください」って答えるしかないよね。それで送られて来たドラフトを見たら、全てのデータが見事に反映されておりました。給与所得、源泉徴収社会保険料、銀行預金の利息、住宅ローンの支払い、僅かばかりの寄付金……まあ筆者が如何に脱税の余地のない単純所得生活を送っていたか、ということの証でもあるけど。

 それにしても日本の税務署は、どうやって納税情報を一人一人の人間に結びつけてるんですかね??