チャンベリ地区

時々マドリッドの夢をみる。
どこかに行こうとして、或いは帰ろうとして、行き着かないで終わってしまうような夢とか、確かここを行けば、あそこに戻れるというような、無意識の場所がイメージに投影されてるような、そんな夢が多い。

最近それらが、実はチャンベリ地区のイメージなんだという事に気付いた。

チャンベリ地区は留学時代の2年間の大半を過ごした場所で、旧市街に隣接しながら道路などはより広く、同時に古くて趣のある建物なども残っている。

ずっと後になって小さなアパルタメントを購入したのは、マドリッドのより北東部に位置するチャマルティン地区で、言ってみれば新市街。

それでも日本でほぼ同じ時期に開発された我が新興住宅地に比べると、街並みや家々はずっと深い趣があるのですが。

留学時代にチャンベリ地区に住んだのは、語学学校がその一角にあったからだ。
大学なども近いので、学生に部屋を貸したい人が掲示板にアヌンシオ(anuncio)を貼りに来る、
「部屋貸します」とか「ピソをシェアします」とか、連絡先の電話番号などを手書きしたものだ。
2年の留学期間の内1年を過ごしたゴジおばさんの下宿屋も、そんなアヌンシオの中から見つけたのだった。

そのゴジおばさんの下宿屋に行き着く前に何件か見て回った。
不思議なのは、30年以上前に一度だけ、そしてほん少し話しただけなのに、その貸主達と会った時の情況が今でも浮かんで来る事だ。

旧市街とチャンベリ地区の境い目辺りだったか、古い小さなピソで会ったフランス人の中年女性は、スペイン人の夫が亡くなった後、部屋を貸して生計の足しにしてるようだった。
より新しい大通りに面した家では、貸し主は30歳前後のキャリア・ウーマンで、彼女の仕事の昼休みに会って話を聞いた。
両親が亡くなった後、ひとりで住むには大きいピソをシェアしているという事だった。
その中間くらいにあった、古さもその2軒の中間くらいの家では、未だ10代とも思えるような若い姉妹が対応してくれた。
お父さんが亡くなった後、ピソを私設の学生寮のようにして、家族で経営していたのだ。

当時はできるだけ自由で自炊もできる、シェアに近い形がいいと思ったけれど、今考えてみると、食事付きの下宿とか寮なんていうのを体験しても良かったんじゃないか?と思える。

オルガにばったり出会ったのは、チャマルティン地区のアパルタメントを買って2、3年経った頃だろうか?
オルガはカナリア訛りが優しい、黒い巻き毛の魅力的な女性で、一時期同じ職場に勤めていた。
出会った時、彼女は既に転職していて、彼女がアパルタメントを買ったから良かったら遊びに来てというような話になったのか、とにかく私は、ある時彼女のアパルタメントを見に行ったのだった。

それは、チャンベリ地区の北東部にあるモデスト・ラフエンテという通りにあった。

家を探していた時、もし先に、オルガのアパルタメントのようなのに出会っていたら、どうしただろう?

オルガのチャンベリ地区のアパルタメントと自分が買ったチャマルティン地区のアパルタメントが、同時に売りに出ていたとしたら、今の自分ならチャンベリを選ぶのではないだろうか?

夢に出て来る街は、人生でやり残した事に繋がる道なのかもしれないと、ふと思う。