犬に助けられた話

留学時代の後半、1981年から1982年くらいの話。季節は覚えていない。
陶芸学校の友達が作った工房に参加させて貰って、午後から夜にかけてそこで過ごし、同じ地区に住んでいた友達数人と地下鉄で帰って来るというような日々だった。
当時のマドリッドは比較的治安が良く、元々街灯が明るいし、夜遅くまで人が出歩いているお国柄もあって、住んで居た地区では夜中近くなっても怖いと思うような事はなかった。

家の近くには大きな公園があって、夜遅くなると大型犬を連れた若者達がよく集まっていた。
ジャーマン・シェパードドーベルマングレートデン…皆ノーリード。
公園の境の石に前足をかけて立って、じっとこっちを見ているグレートデンと目があったのを覚えているのは、それが一度ではなかったかもしれない。
元々犬を怖いと思った事はなかったし、飼い主がノーリードにしているのは彼らが通行人に危害を加えるなんていう心配はないからだと信じていた。
ただ今思うと、人の多い明るい時間帯ではなく、夜遅い時間を選んで集まっていたのはそれなりの配慮だったかも。
単独では昼間でも、サイズを問わずノーリードで散歩している犬を見かけるのは、当時のマドリッドでは割と普通の事だった。

そういう遅い時間、何故かその日はひとりで帰って来た。
工房からの帰りに利用する地下鉄の駅は少し離れていて、人通りも少ないところにあった。
後ろから同じ速度で付いて来る足音があった。
たまたま同じ方向に行くだけかもしれないけれど、もしかして後を付けて来るとか?
ひたすら前を向いて歩いていたら、前方の家から犬の散歩に出てきた若者がひとり…

と突然、その犬がこちらに向かってワンワンと吠えながら走り出した。
その時も、犬が自分を襲うというような事は頭をよぎりもしなかった。
ただ、なんで吠えるのよ、私に吠えてるの? 等思いながら歩き続けていると、その犬は吠えながら私の脇を通り抜けて、後ろから付いて来た足音の男に飛びかかった。

やっぱり! 偶然同じ方向に歩いていたのではなく、何か良からぬことを企んで後を付けて来てたんだ!

振り返って見ると、男は犬に歩道から押し出されて、犬と、慌ててその後を追いかけて行った飼い主の若者に悪態をついていて、若者はひたすら謝っていた。

(違うよ、あなたの犬は私を助けてくれたんだよ…)

若者にそう説明したかったけど、そんな余裕はない。
急いでその場を立ち去りながら、子供の頃に飼っていて生別したハッピーが、助けてくれたと思った。