放し飼い

犬の散歩をしてるとよく見かける立て札に「放し飼い禁止」というのがある。
ノーリード禁止の意味で使ってるようだ。

放し飼いというのは、例えば毎日ひとりで渋谷駅まで往復してた忠犬ハチ公のような飼い方を言うんじゃないですか?

今の渋谷駅では到底考えられない、のどかな光景?
人も車も、今よりずっと少なくて
大型犬がひとりで歩いていても違和感がなかった社会…

子供の頃、肉屋にお使いに行くというので評判になった犬が居たけれど、
そういうのも放し飼いだったから出来た訳で…
と思い出していたら、タイミング良く?
《帝國の犬達》に、お使い犬の話が掲載されました。

これは昭和8年と出ているから戦前の話。
上の、町の肉屋にお使いに行く犬の話は戦後の話。
昭和30年代の前半くらいだったか…
やはり首に、注文を書いた紙を入れた袋をつけて肉屋まで行き、肉屋さんがその注文を読んで袋に肉を入れてやって、それを持って帰る、多分そういう話だった。
支払いは多分ツケ?
肉屋の御用聞きが家まで注文取りに来て、後からそれを届けてくれるというような時代でした。
プラスチックなんてなかった時代でもある。
肉はどんな袋に入れて犬の首に付けられたのだろう?
お使いに行くという事自体よりも、肉を食べようとしないで、ちゃんと持って帰るという事に感心した記憶がある。
ちなみに犬種は今でいうミックス、雑種の中型犬だったと思う。この

同じ30年代の半ば頃か、当時住んでいた社宅の台所に毎朝一匹の犬が現れるようになった。
名前は確かマル?
野良犬ではなくて、飼い主は同じ社宅群の中に住む誰それさんらしいと、そのうち分かった。
それが毎朝、家族で朝ごはんを食べている台所の入り口に現れて、上り口に顎を乗せて、朝ごはんが終わるのを大人しく待っている。
そして最後にトーストを一枚とかやると食べて帰って行く。

所謂ムク犬みたいなミックス犬だった記憶が朧げにある。
大きさは台所の上り口に顎が乗っけられた位だから、やはり中型犬ですね。

マルはいつの間にか来なくなった。
今考えると、それはうちで犬を飼い始めたからだったのかもしれない。
だとするとマル自身は、うちの犬ではないと認識していた事になる?

マルの飼い主さんが、マルが毎朝うちに来て「朝ごはん」を食べていた事を知っていたかどうかは分からない。

少し前にお友達のブログでハチ公の話が出て来て、コメントしました。
ハチ公はご主人様が出先で亡くなったという事が分からなくて、毎日お迎えに行き続けたという事になっているけれど、そうなのだろうか? 必ずしもそうではなかったのではないか? という事。

飼い主が病院で亡くなった時間に、預けられていた家でひと声悲しそうに吠えたという犬の話を直接聞いた事があるし、やはり病院で亡くなった飼い主の後を追って自宅で息絶えてしまったという犬の話も人づてに聞いた事がある。
元々犬は、そういうテレパシーのような力や人の心を感知する力、人間では退化してしまった予知能力のようなものも持ってるんじゃないですか?

そう考えるとハチ公にも、ご主人様が亡くなったという事は、人間がそれを理解するのとは違う形だとしても、分かってたのではないかと思うのです。
もう帰って来ないと分かっていても、毎日同じ時間に渋谷駅まで行って、そして帰って来る。
ハチ公はどんな事を思いながらそうしていたのか…それはハチ公に聞いてみないと分からない…というよりは、聞いても答えを理解する力は人間にはないけどね…